浅草 酉の市

忠臣蔵後日談in酉の寺長國寺

12月の声を聞くと、巷はクリスマスと忠臣蔵の話題で一杯
ト、いうわけで今月は酉の寺長國寺が登場する、忠臣蔵後日談をご紹介しましょう。
忠臣蔵といえば元禄15年(1702年)12月14日の赤穂浪士による吉良上野介邸への討ち入り事件を題材にした芝居で、初演当時寛延元年(1748年)から大当たりをとりました。以後現在まで様々に脚色されて数えきれないほど多くのメディアに登場し、今では討ち入り事件をも意味するようになりました。まさに日本を代表するドラマの一つです。

これはすべて仮名手本忠臣蔵11段目の討ち入りの場を描いた錦絵です。忠臣蔵はそれぞれ視点を変えて多数描かれ、人気のほどがうかがえます。ここに載せた三代豊国の絵は丸い駒絵に、浪士達が上野介の首を掲げて泉岳寺に向かうシーンを表現しています。

高名な事象にありがちな虚実取り混ぜた後日談が、赤穂浪士の討ち入り事件についてもわんさか登場したようで、蜀山人と号した江戸の文化人大田南畝(1749年~1823年)がその著書である「半日閑話」の中でこんなふうに述べています。

活字全文はこちら

半日閑話要約

「浅草長國寺内の老尼」
延享4年頃(1747年)大音寺前の本立山長國寺<日蓮宗鷲大明神のある寺なり>に、浅野内匠頭家士武林唯七の姉孫に当たる賢と名乗る僧と、唯七の娘である老尼が居た。この六十余りに見える老尼が言うことには、十五才の頃、同藩吉田忠左衛門の娘共々吉良家に奉公し、討ち入りの時には、寺坂吉右衛門の手引きで邸内に侵入した大石内蔵助、父の吉田、武林の三人を吉良の寝所に案内したという。最初にたどり着いた寝所はもぬけの殻で、別の場所を探さねばならなかった。この時内蔵助の手を取ろうと急ぐあまり、誤って抜持つ刀を左手で握ったため大きなそぎ傷を負い、以後手を開くことが出来なくなってしまった。今迄誰にも口外したことが無いので、義士伝などには見えないが本当のことだという。世に言われる討ち入りの始末記について聞き知ってはいるが、自らの体験では自分達が三人を寝所に導いて、首尾よく吉良の首を討取る事ができた。その後直ちに寺坂吉右衛門にその首を托し泉岳寺に遣わしたのだと言う。上野介の首を討つその時灯した蝋燭の一本が誤って障子に燃え移り、奥で火事だと慌てるうち表裏の門から多くの浪士が討ち入ったようであった。すると屋敷中大騒ぎになり、その後のことは動転して何もわからなかったということである。  僧呂賢の親友であるという河田藤助は物語の中で以上のように語っている。

また、榊原一学長俊の謾録には以下のように載っている。
吉良も八千石の大家だし家中をあげての用心も怠りないだろう。そこへ大勢で正面突破を計っても顔も知らない吉良を討取ることは、容易ではないかも知れない。もし討ち損じることにでもなれば主君の名を汚し、恥辱の上塗りになってしまう。必ずや本懐を遂げるため、大石氏も老尼の語ったように計らったかも知れない。

私(南畝)はこの二人の言っている事はどうもいま一つ信じられない。
ただ、拙宅にしばしば来訪する豊前小倉藩の中村荘三郎に討ち入りの実説を語ったところ、彼は同藩の宮川三益にその話をしたとのこと。すると三益が言うには、幼少の頃父に連れられ長國寺に行ったおりその尼の左手を見て、幼心に気味が悪かったことをいまだに覚えている。今の話を聞いて合点が行ったという。 (だとすると長國寺の老尼のことは信じられる部分もあるかな。)

トまあ、このように大田南畝は半日閑話で書いています。
つまり当時の風潮として、在ること無いこと無責任に書き散らした、読み物が氾濫していることに対して非常に苦々しく思っているわけです。

武林唯七隆重

さて、この武林唯七とは、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折り捕虜として連れてきた中国人を祖父に持ち、浅野家に仕えた父の跡、刃傷事件当時は馬廻り、十両三人扶持の身分でした。 討ち入りの際は片岡源五右衛門、富森助右衛門と三人一組になって屋内に駆け入ったとされ、法名を刃性春剣信士。辞世は「仕合や死出の山路は花盛り」 享年32才。

最後に後日談の後日談をひとつ。

時代も昭和となって60年、ある新聞に東京歴史の散歩道として長國寺が取り上げられ、半日閑話の老尼が紹介されました。そこでは老尼は竹林唯七の妻となり、年代も延享ではなく寛保(1741~44年)と変わり、手のひらの傷も内蔵助に切りかかる吉良の用心棒の刀を右手でつかんだことによるという。いつのまにやら左手が右手になり、唯七姉孫の僧侶賢も老尼つまり唯七妻の甥賢了と変身する。ここまで変わってしまって出典を「半日閑話」とされたんでは大田南畝も苦々しいのを通り越して、片腹痛いに違いありません。おそらくドラマのストーリーを史実として書いたことによる間違いでしょう。 “リポーター視てきたような~~”江戸も今もちっとも変わらないんですよ、南畝さん。

サイト紹介 忠臣蔵関連リンク

今回第二話での武林唯七の記述については以下のサイトを参考にさせていただき、また、図版については(古文書で読み解く忠臣蔵 吉田 豊・佐藤孔亮 共著 柏書房)より引用させていただきました。ありがとうございます。

番号 テーマ 掲載日
第六話 新吉原と酉の市 2003.11.07
第五話 落し咄し酉のまち 2003.04.04
第四話 流行つくった酉街道 2003.02.01
第三話 開運招福の熊手揃へ 2003.01.06
第二話 忠臣蔵後日談in酉の寺長國寺 2002.12.12
第一話 吉原通いと三の酉 2002.10.28
ページトップへ